黑木ライ展 #0
代替可能性或いは人間以外
令和2年6月5-7日
ギャラリーイロ

RYE KUROKI EXHIBITION #0
substitutability:besides human
2020.6.5-7 GALLERY IRO

a short excuse
短い言いわけ、ステートメントに替えて

コロナが始まる前から「代替可能性」について考えていた。ポートレートを撮り始めて約2年。不穏な考えとして「人でなくてもいいのでは」という考えがときより頭をよぎった。人に限らず、あらゆるものは代替可能で私たちはその不安のなかで生きている。だからこそ、「オンリーワン」だの「かけがえのない私」だのが声高に叫ばれ(つづける)のではないか。現象や時間ですら一回性という神話に守られて歴史という骨董品に堕す。

代替可能性の物理的(フィジカル)な試みとして、白い風船を使った「crazy perspective:white hole」というテーマを企図していた。しかし、それすらもコロナで外出自粛となり、なかば心が折れるかたちであきらめた。ポッキーよりフラジャイルな心の持ち主なのだ、私は。

substitutability:besides human
代替可能性或いは人間以外

すでに私の戯言などどーでもよくて、社会や世界が現実として「代替可能性」について切実な問いにさらされていた。陳腐な言い方だが、こんな世界で写真やら風船やら、そんなものはもうどうでもいい、と。命がけの社会実験としての「代替可能性」について人類が問いにさらされているのだ。

と、大げさに言いつつ、結局はこれまで撮りためた「ポートレート以外」の写真を展示しようと思った。正確には「写真展」ではない。自分なりの「今」を空間や現象に結像させたい。ただそんなぼんやりとした切迫感にかられた「何か」だ。「オンラインでできないこと」がこの展示のもっともプリミティブな衝動だった。その衝動は(不幸にも)コロナにより明確な輪郭を与えられてしまった。今はもう、なかばやけっぱちな気分としての「オンラインではできないこと」だ。しかも、人間以外。

代替可能性、記録複製性、同時多発伝達性、擬似再現性、そういうものを振り切って、意味のないことをしてみたい。そういう衝動にかられている。つまり、人間以外。

でもって、数年後ふりかえって、「今」が「熱にうなされた」微苦笑をもって思い出されるような一時期なのか。「それより前」を歴史の教科書のなかのフィクションのようにしかとらえられないほどのインパクトだったのか。どう思うのかはわからないが、どちらにしろ、何か形に残らない記念碑を建てておくことには、個人史的にも意味はあるだろうと思ってやってみる。

黑木ライ
2020.5.7

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